carmine跡地

はてダの跡地です

夢見るつよよ

剛さんのソロコン期間中における怒涛の露出期間中は彼の一挙手一投足に一喜一憂(熟語だらけ)して泣いたり笑ったりしていた私ですが、喉元過ぎれば熱さを忘れるの言葉通りに現在は穏やかな心境でぬるーく見守っています。剛さんのこと(大意)で泣いたりしてた頃からまら一ヶ月も経っていないというのにあの頃の嵐が嘘のように剛さんを愛でる日々なり。私はしょせん「可愛い剛さん担」なので剛さんがニコニコしてればそれが幸せ。ほんとーに私はあのお顔と体と声が好き。外見的要素のみでこんなにもハッピー全開。ああ、かばええなぁ・・・きんきちゃんはかばええ・・・。
外見好きであるが故になんていうか剛さんのビジュアルと内面と音を別々に考えてしまいがちなところが私はあります。光一さんの曲を聴くと切ない曲調や歌詞と実際の光一さんを結びつけてイメージを膨らませてきゅーんとしたりしますが、剛さんの歌を聴いても剛さんが誌面で語る現状や思いなどと重ねあわせて感動したり・・・そういうことをあまりしない。あくまでも歌から感じ取れる世界観にひたり、その中で感動したり興奮したり嬉しくなったり切なくなったりそんな感情が湧いてくる。アルバム制作における苦労話や意図するところなど、熱心に文字で追いかけて材料を補完しようとしなかった。音だけで満足してしまった。私にとってsiの中に込められた音が全てであり、そこから感じ取れるものだけで充分だったのかな。それは私にとってとても意外なことでもありました。剛さんの「音楽」をそこまで純粋に音楽として聴くことが出来ると思っていなかったから。だって 私は剛さんの音楽に興味は無いのよ、ってな感じのことを以前ここで書いてたくらいですからね。そんな自分のスタンスもあり、siの衝撃は凄かった。うわ、どうしよう、これ普通にただの音楽として聴ける、しかもすごく好きだ、って思って。またしても私の予想から大きく飛び出した剛さんに驚き感動し敗北しました。気持ちの良いカタルシスでした。すごい。すごい。あの人すごい。
あーまとまり無いなこのエントリー。タイトルと内容が違いすぎる。タイトルは靴音読んでガツンとやられて思ったことであり、ああいった文章から受ける印象と音楽から受ける印象と外見的印象と全てが違っていて、受け取るこちら側の好みでそのつど選択して勝手に萌えたり凹んだりしてるのが阿呆らしくなっちゃうな、ということを書こうとしたのに。ああ、言いたいことが言えてない。なにもかもはっきり書けない。剛さんのことを明快に語れる言葉が私の中にはどこにも落ちてない。ほんとこれ読み返してみても何が言いたいんだかわかりませんな。なんだろこれ。