carmine跡地

はてダの跡地です

答えなんて無いのかもしれないな

っていうか演劇のテーマとしてそれを出してこられると、どんなに考えても結局ドン詰まって「答えなんて無いのかもしれないな…コウイチは自分が死ぬことを知った今も走りつづけてるんだ…!」とアキヤマ口調で叫んで終了。になる。


私はSHOCKに「芝居」を求めてないんですよね多分。人間の生き様を見たいんだと思う。そして、それを見せてくれるからあの舞台が病みつきになる。「命をかけて」舞台に立っている座長の姿にただもう心が震える。べつに台詞無くてもいいんじゃん、と思います、究極。


今年のEndless SHOCKは明確な言葉が選び取られ、よりわかりやすく伝えようという改変なんだろうなと思います。だからこそ一旦脳に入ってぐるっとまわった後に心に届く…そんな伝わり方を私の中ではしています。そうなると理屈じゃない感動だとかなんだかわからないんだけど涙が出るとかじゃなくなる。なんでここでこの言葉を選んでいるのか?何を伝えようとしてこの言葉なのか、やり取りなのか、動きなのか。気になる。読み取りたいと思う。
ドラマチックで泣けるEndless SHOCKはリョウ。
Endless SHOCKのライバル役としての舞台映えはツバサ。
ではトウマのEndless SHOCKは何なのか。感情的な部分ではリョウが好み。コウイチに対する屈折した思いを爆発させギリギリの精神状態でショーに取り組む姿があまりに痛々しいのはツバサ。トウマは?トウマは明るい。その明るさが、今までEndless SHOCKには無かったものなので戸惑う。そして今年はトウマに合わせて台詞にも細かい変更箇所がいくつも出てきた。それが何を意味するのか。トウマのEndless SHOCKでは何を訴えたいのだろう座長は。カンパニーは。そのかたちは私はまだ掴めない。
昨日のエントリで書いた解釈はあくまでも「こんなふうに考えられる可能性のひとつ」ですので、自分の解釈があれで固まってるわけではありません。今の私*1が『こうかも?』と着地したのが、今年のSHOCKはそれぞれが自己と向き合いなにかを超えてゆく内省SHOCKである、というところなのです。見た直後の直感的な感想ではなく一週間脳内でこねくり回した感想なんで、次に観に行ったらまた違う事言いはじめる可能性大です。


ただ、私がどんな浅薄な解釈を巡らせたところで、コウイチの最後のショーでの光一さんの姿の前にはそんなものまるで説得力が無いんですよね。あの光一さんの姿がSHOCKそのもの。あのひとの生き様こそがSHOCKのテンション。





拍手おへんじ<Mさん
怒涛の拍手ありがとうございます。Mさんがどう感じられたのかとても興味があります。いっぺんじっくりEndless SHOCKを語る会でも開催しましょうか?(笑)
私は二幕の告白シーンでのトウマとリカの良さで却って混乱したんですよね。コウイチが常軌を逸した慕われ方だったり殺すほどの鬱屈した憎しみを向けられていたりするEndless SHOCKを二年見てきて、その見方にすっかり自分の考えもはまってしまっているからかな、と今は思っています。今年の告白シーンはコウイチを通して彼ら本人が成長するための苦しみなんだ、と考えると無理なく理解が出来るような気がしました。ま、そういいつつも、だからってその手段としてコウイチ殺すっていうのはどうなんだー!人ひとり殺しておいてそれが若者たちの成長物語に必要な事件でしただなんて納得できるかー!言ってることとやってることの乖離が激しすぎてついていけないんじゃボケーー!お前ら*2は多重人格者かーー!と思うのも本心なんですけど(笑)。

*1:観劇から一週間経っている私。

*2:もちろんコウイチを含む